「過去からの解放」を実感する

私たちは普段、何気なくこの「世界」を動かしようのない「現実」と捉えています。
それは、まず「動かしようのない現実」があり、そこに「時間」が流れている、というふうに。
その「動かしようのない現実」の中に、当然ながら自分(の身体)も含まれていて、私たちの「意識」は流れている時間に沿ってそれらを確認している、という感覚です。
だから私たちは、実際に知覚している「今」とは別に、「過去」は「実体」として確実に存在してるもの、と考えています。

しかし「動かしようのない現実」などない、というのが仏教思想における、あるいは現代物理学における「世界」の捉え方です。
特に、現代物理学(素粒子論)においては、「意識/知覚」と「現実/実体」とは密接に結びついていて切り離せないもの、という見方をしています。
つまり、禅問答のようですが「(意識が)知覚しなければ(実体としての)現実もない」ということになります。

現代物理学上の事実では「意識が知覚した瞬間にこの現実が実体化」します。
そして次の瞬間の知覚に伴って「新しい現実」が実体化し、その次の瞬間には「また新しい現実」が実体化し、また次の瞬間・・・、と続いていきます。

「意識」が知覚しているのは、いうまでもなく「今この瞬間のみ」ですから、「一瞬前に実体化した現実はどうなったのか?」という疑問が浮かびます。
何となく「いったん実体化した現実は、そのまま実体として残り続ける」ように感じますが、そうではありません。
知覚できるのは「今」だけですから、固定された実体としてあるのも「今この瞬間」の現実のみ、ということになります。
今この瞬間の現実が刻一刻と変化し続けているだけで、過去が実体として残っていくわけではないのです。
この「固定された実体としてあるのは今この瞬間の現実のみ」という感覚は、私たちの実感からはほど遠いかもしれません。
しかし瞑想によって、あるいは生来的にこの感覚を体感されている方も多いのではないでしょうか。

「過去」にポイントを絞って言うと、私たちが「過去を思い出している」時、実際に起こっているのは、今この瞬間の脳内のイメージを「記憶」という名前をつけて知覚しているということです。
「過去の動かしようのない実体」を見ているのではないのです。(*1)
最近の脳科学でも、「過去を振り返っている時」と「今、実際に現実を見ている時」の脳波には区別がつけられない、との研究結果が出ているそうです。
これはつまり、私たちが「過去を思い出している」と感じているのは、実は毎回「今まさしく脳内で新しく現実を創り出している」のだということを意味しています。

実体として存在するのは「この瞬間の現実」だけで、しかも「過去の事実」だと思い込んでいるのは「今この瞬間には存在していない事」なのですから、過去に関してあれこれ悩む必要などないのかもしれません。
実在しない「過去」に囚われていても仕様がないのです。(*2)
特に嫌なことや辛いことは、思い出すこと自体が、自分にとっても周りの人にとっても不利益になる場合の方が多いともいえます。
時々は、「過去の事実と信じ込んでいるもの」に振り回される必要はないのでは? と戒めたいものです。
そして過去の経験や記憶を、そこから何かを学んで「今の現実」に活かすために活用したいと思います。

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(*1)「間違いなく事実だと信じていた記憶が、人の記憶と食い違っていた。」というのは、この良い例でしょう。この場合、もちろんどちらが正しい、あるいはどちらが真実ということはできません。
(*2)私たちは「今この瞬間」だけにしか生きていませんから、私たちができることは、今この瞬間に「何を思い」「何を喋り」「何をするか」だけといえます。

カテゴリー: 空と音と時の話